島原に到着。
島原の郷土料理と言えば、具雑煮。
島原の乱の際、紅顔の美少年・天草四郎はじめキリスト教信者達が
原城へ籠城した時に、山海で採れるものと兵糧の餅を一緒に炊いたことに
始まるとされています。
で、具雑煮と言えば「姫松屋」。
全部飲めてしまう美味なお出汁に、小ぶりの餅、アナゴ、ごぼう、春菊、鶏肉、凍豆腐などが
入っています。
かわいらしく「並」を注文しましたが、「大」にすればよかった!!
これより先は、普賢岳の噴火災害に関連する画像になります。
重い内容になりますが・・・。
普賢岳。
平成2年(1990年)から平成7年(1995年)にかけて198年ぶりに
噴火活動の起こった山です。
当初、地震や噴煙活動が続いていましたが、やがて粘性のある溶岩が噴出し、
溶岩ドームを形成。
この溶岩ドームが所々で崩れ落ち、度々火砕流が発生しました。
平成3年(1991年)6月3日に起こった大火砕流では、報道陣、警察、消防団、
タクシー運転手、農作業中の方々などが巻き込まれ、命を落とされています。。。
火砕流を目の当たりにする機会は世界的にも珍しく、この地を訪れていた
火山学者のクラフト夫妻も、火砕流に巻き込まれ亡くなりました。
下の画像は、道の駅みずなし本陣から眺める普賢岳。
真ん中の雲のかかっている山が溶岩ドームのある普賢岳です。
溶岩ドームから、その下のおわん状の小さな山を挟んだ左右にかけて
グレーになっている部分がありますが、ここが火砕流の流れた跡です。
現在でも、小さな木が生えている程度で、爪痕が生々しく残っています。
火砕流が、画面手前のみずなし本陣に向かって流れてきている様子が
よく分かります。
ここに保存されているのが、被災家屋。
火砕流が途中で止まっても、雨が降り続くと噴出された土砂が流され、
大きな岩が無数に転がる土石流が頻発しました。
この辺り一帯は、埋め尽くされてしまった地域です。
人間は逃げても、飼っている家畜までは連れて行くことができず、
牛や豚は土石流に呑まれてしまいました。
被災家屋は、以前、殿とここへ来た時に、どうしてもカメラを向けることができなかった場所。
あれから数年。
たびたび、これだけの災害が起こってもこの地へ残る方たち、被災した家屋を
保存公開する方たちの心中がどのようなものであるのかを考え、
シャッターを押せなかったのは何故か?と自問自答してきました。
今でも、被災された方々の心中は、ほんの少しも分かってはいませんが、
カメラを向けられなかった理由は分かりました。
興味本位で訪れたからです。
しかし、目の前にあった光景は、遊び半分で来た私の頭をガツンと殴るほど、
噴火から時を経てなお目をそらしたくなる程の惨事でした。
地元の方が「見てほしい。知ってほしい。」とおっしゃる姿を何度か目にし、
決して全員がそういう気持ちでないではあろうと思いつつ、
しかし一方で一人でも多くの方に知ってほしいとおっしゃる方が少なからず
おられ、ただ見るだけでなく今後に役立ててほしいとの悲痛な願いも
込められた保存公開なのだという思いに至りました。
これまでも、そう思ってはいたつもりでしたが、本当の意味で
理解はしていなかったのだと思います。
今回、他の資料館なども見て回り、当時の惨事を伝える資料を
じっくりと見れば見るほど、その場を動けなくなるほどの衝撃を受けました。
この土地で暮らしてきた方々に、あまりにも山は厳しかった。
けれど、それでもこの土地で、この山と共に暮らしておられる。
今回、再び訪れてみてよかったです。
真摯な気持ちで、被災された方々に改めてお見舞い申し上げ、
亡くなられた方々に合掌。
場所は変わって、被災した大野木場小学校跡。
ここも、保存公開されています。
コンクリートと鉄骨が残り、床板は焼けて基礎が出ています。
しかし、焼けずにほぼそのまま残っている教室もあるそう。
立ち入り禁止のため、上階のその教室を見ることはできませんが、
隣設された大野木場砂防みらい館に写真が展示されています。
ここは、火砕流の本流に巻き込まれたわけではありません。
下の画像は、小学校に隣接する建物からの眺めですが、
道路のもう1本向こう、普賢岳から画像右手に流れているグレーの地域が
本流の流れた跡です。
火砕流とは、火山によって生じた堆積物(岩や火山灰など)を巻き込みながら、
火山ガスとともにマグマが斜面を流れ落ちる現象です。
比重が軽いためスピードが速く、100km/時を超える速度で
一気に流れ落ちることもあるそう。
同時に、非常に高温な熱風が生じます。
この熱風が校舎を襲い、火災が起こったのです。
下の画像は平成3年(1991年)6月3日に起きた大火砕流発生時の
小学校の写真です。
当時、小学校では授業が行われており、校舎にいた児童が避難している様子が
写されています。
小さくて分かり辛いですが、画像の右下、白い丸で囲まれているところが、
逃げ出す児童です。
幸い、全員無事に避難できています。
今回の噴火から198年前に起きた、前回の噴火の際には眉山が崩れ、
それが海へと流れ落ち大津波を引き起こしました。
津波は対岸の天草の家々を呑みこみ、さらに返した波が島原の家々を襲い、
甚大な被害をもらたしました。
「島原大変肥後迷惑」と呼ばれた出来事です。
今回の噴火では、「肥後迷惑ではなく、助け合おう」と、天草の方々も
支援に尽力されたと当時の新聞記事に記載されていた記憶があります。
昨年の11月には、島原で初めての国際会議である
火山都市国際会議島原大会が開催されました。
また、長崎新聞では研究者や被災住民などあらゆる角度から見た
平成の噴火に関する記事をweb上で公開しています。
現在では、遠隔操作による無人での砂防設備建設なども進められ、
いつかまた来るかもしれないその日のために、着々と防災設備が
整えられています。
大野木場小学校のグラウンドに生えているひと際大きな銀杏の木。
下の画像、右上に青々とした葉を茂らせている木がそれです。
この木も、校舎と共に被災し焼けてしまったのですが、
2年後に芽吹き、再び青々とした葉を茂らせるようになりました。
この木に、島原の未来を見たような気がします。
今回は、災害関係の施設だけを見ましたが、島原は火山性の土壌で何年もかけて
濾過された清らかな水が湧き出す湧水群や、澄んだ水が流れる武家屋敷、
島原城などの美しい街並みが残っている所です。
次回訪れる時は、また違った気持でこの町を眺められるような気がします。
島原の郷土料理と言えば、具雑煮。
島原の乱の際、紅顔の美少年・天草四郎はじめキリスト教信者達が
原城へ籠城した時に、山海で採れるものと兵糧の餅を一緒に炊いたことに
始まるとされています。
で、具雑煮と言えば「姫松屋」。
全部飲めてしまう美味なお出汁に、小ぶりの餅、アナゴ、ごぼう、春菊、鶏肉、凍豆腐などが
入っています。
かわいらしく「並」を注文しましたが、「大」にすればよかった!!
これより先は、普賢岳の噴火災害に関連する画像になります。
重い内容になりますが・・・。
普賢岳。
平成2年(1990年)から平成7年(1995年)にかけて198年ぶりに
噴火活動の起こった山です。
当初、地震や噴煙活動が続いていましたが、やがて粘性のある溶岩が噴出し、
溶岩ドームを形成。
この溶岩ドームが所々で崩れ落ち、度々火砕流が発生しました。
平成3年(1991年)6月3日に起こった大火砕流では、報道陣、警察、消防団、
タクシー運転手、農作業中の方々などが巻き込まれ、命を落とされています。。。
火砕流を目の当たりにする機会は世界的にも珍しく、この地を訪れていた
火山学者のクラフト夫妻も、火砕流に巻き込まれ亡くなりました。
下の画像は、道の駅みずなし本陣から眺める普賢岳。
真ん中の雲のかかっている山が溶岩ドームのある普賢岳です。
溶岩ドームから、その下のおわん状の小さな山を挟んだ左右にかけて
グレーになっている部分がありますが、ここが火砕流の流れた跡です。
現在でも、小さな木が生えている程度で、爪痕が生々しく残っています。
火砕流が、画面手前のみずなし本陣に向かって流れてきている様子が
よく分かります。
ここに保存されているのが、被災家屋。
火砕流が途中で止まっても、雨が降り続くと噴出された土砂が流され、
大きな岩が無数に転がる土石流が頻発しました。
この辺り一帯は、埋め尽くされてしまった地域です。
人間は逃げても、飼っている家畜までは連れて行くことができず、
牛や豚は土石流に呑まれてしまいました。
被災家屋は、以前、殿とここへ来た時に、どうしてもカメラを向けることができなかった場所。
あれから数年。
たびたび、これだけの災害が起こってもこの地へ残る方たち、被災した家屋を
保存公開する方たちの心中がどのようなものであるのかを考え、
シャッターを押せなかったのは何故か?と自問自答してきました。
今でも、被災された方々の心中は、ほんの少しも分かってはいませんが、
カメラを向けられなかった理由は分かりました。
興味本位で訪れたからです。
しかし、目の前にあった光景は、遊び半分で来た私の頭をガツンと殴るほど、
噴火から時を経てなお目をそらしたくなる程の惨事でした。
地元の方が「見てほしい。知ってほしい。」とおっしゃる姿を何度か目にし、
決して全員がそういう気持ちでないではあろうと思いつつ、
しかし一方で一人でも多くの方に知ってほしいとおっしゃる方が少なからず
おられ、ただ見るだけでなく今後に役立ててほしいとの悲痛な願いも
込められた保存公開なのだという思いに至りました。
これまでも、そう思ってはいたつもりでしたが、本当の意味で
理解はしていなかったのだと思います。
今回、他の資料館なども見て回り、当時の惨事を伝える資料を
じっくりと見れば見るほど、その場を動けなくなるほどの衝撃を受けました。
この土地で暮らしてきた方々に、あまりにも山は厳しかった。
けれど、それでもこの土地で、この山と共に暮らしておられる。
今回、再び訪れてみてよかったです。
真摯な気持ちで、被災された方々に改めてお見舞い申し上げ、
亡くなられた方々に合掌。
場所は変わって、被災した大野木場小学校跡。
ここも、保存公開されています。
コンクリートと鉄骨が残り、床板は焼けて基礎が出ています。
しかし、焼けずにほぼそのまま残っている教室もあるそう。
立ち入り禁止のため、上階のその教室を見ることはできませんが、
隣設された大野木場砂防みらい館に写真が展示されています。
ここは、火砕流の本流に巻き込まれたわけではありません。
下の画像は、小学校に隣接する建物からの眺めですが、
道路のもう1本向こう、普賢岳から画像右手に流れているグレーの地域が
本流の流れた跡です。
火砕流とは、火山によって生じた堆積物(岩や火山灰など)を巻き込みながら、
火山ガスとともにマグマが斜面を流れ落ちる現象です。
比重が軽いためスピードが速く、100km/時を超える速度で
一気に流れ落ちることもあるそう。
同時に、非常に高温な熱風が生じます。
この熱風が校舎を襲い、火災が起こったのです。
下の画像は平成3年(1991年)6月3日に起きた大火砕流発生時の
小学校の写真です。
当時、小学校では授業が行われており、校舎にいた児童が避難している様子が
写されています。
小さくて分かり辛いですが、画像の右下、白い丸で囲まれているところが、
逃げ出す児童です。
幸い、全員無事に避難できています。
今回の噴火から198年前に起きた、前回の噴火の際には眉山が崩れ、
それが海へと流れ落ち大津波を引き起こしました。
津波は対岸の天草の家々を呑みこみ、さらに返した波が島原の家々を襲い、
甚大な被害をもらたしました。
「島原大変肥後迷惑」と呼ばれた出来事です。
今回の噴火では、「肥後迷惑ではなく、助け合おう」と、天草の方々も
支援に尽力されたと当時の新聞記事に記載されていた記憶があります。
昨年の11月には、島原で初めての国際会議である
火山都市国際会議島原大会が開催されました。
また、長崎新聞では研究者や被災住民などあらゆる角度から見た
平成の噴火に関する記事をweb上で公開しています。
現在では、遠隔操作による無人での砂防設備建設なども進められ、
いつかまた来るかもしれないその日のために、着々と防災設備が
整えられています。
大野木場小学校のグラウンドに生えているひと際大きな銀杏の木。
下の画像、右上に青々とした葉を茂らせている木がそれです。
この木も、校舎と共に被災し焼けてしまったのですが、
2年後に芽吹き、再び青々とした葉を茂らせるようになりました。
この木に、島原の未来を見たような気がします。
今回は、災害関係の施設だけを見ましたが、島原は火山性の土壌で何年もかけて
濾過された清らかな水が湧き出す湧水群や、澄んだ水が流れる武家屋敷、
島原城などの美しい街並みが残っている所です。
次回訪れる時は、また違った気持でこの町を眺められるような気がします。
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この記事にコメントする
コレは恐ろしい
このすぐ後ろまで煙が吹き上げてる写真も怖いですね・・・・。
写真週刊誌で大火砕流発生したときに
最前線で警戒していたパトカーが巻き込まれて
フレームしか残っていないのを見たことがあります。
この災害
火砕流の勢いのために対岸に高潮がやってきて
さらに、その戻った海水で三次災害まで起きたそうですね
自然はコワイです・・・・
しかしながら、火山地帯ゆえに温泉の恩恵に
預かれるのも日本の特徴なわけで・・・・
写真週刊誌で大火砕流発生したときに
最前線で警戒していたパトカーが巻き込まれて
フレームしか残っていないのを見たことがあります。
この災害
火砕流の勢いのために対岸に高潮がやってきて
さらに、その戻った海水で三次災害まで起きたそうですね
自然はコワイです・・・・
しかしながら、火山地帯ゆえに温泉の恩恵に
預かれるのも日本の特徴なわけで・・・・
こんばんは
>くまぽんさん
コメントのつけ辛い記事にありがとうございます。
小学校の後ろまで煙が迫ってる写真、恐いですよね。
こんなのがまともに襲ってきたら…と思うと鳥肌が立ちます。
パトカーのフレーム、想像がつきます。
被災家屋を展示している所には、大火砕流の跡から出てきた物も
展示されているのですが、車や撮影用のカメラが
溶けてしまってるんですよね・・・。
怖いです。
ですが、くまぽんさんのおっしゃるとおり、
島原の資料館でも、火山の恵みもあるという
希望のある終わり方になっていました。
これだけの被害にあってなお、なぜ住み続けるのか…、
という疑問を持っていましたが、三宅島の島民が帰島できることになった際、
島原の住民が「ようやく帰れますねぇ」とおっしゃったことを耳にして、
その一言にすべてが表れているなぁ…と思いました。
コメントのつけ辛い記事にありがとうございます。
小学校の後ろまで煙が迫ってる写真、恐いですよね。
こんなのがまともに襲ってきたら…と思うと鳥肌が立ちます。
パトカーのフレーム、想像がつきます。
被災家屋を展示している所には、大火砕流の跡から出てきた物も
展示されているのですが、車や撮影用のカメラが
溶けてしまってるんですよね・・・。
怖いです。
ですが、くまぽんさんのおっしゃるとおり、
島原の資料館でも、火山の恵みもあるという
希望のある終わり方になっていました。
これだけの被害にあってなお、なぜ住み続けるのか…、
という疑問を持っていましたが、三宅島の島民が帰島できることになった際、
島原の住民が「ようやく帰れますねぇ」とおっしゃったことを耳にして、
その一言にすべてが表れているなぁ…と思いました。
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